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    赦し

    このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 赦し あとで読む
    赦し(ゆるし)について、ちょっと考えさせられた。

    http://twitter.com/kamekoo18/status/24404862707

    日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそう。前者は、息苦しさを、後者には、ホッとするものを感じる。迷惑かけずに生きられるわけない。



    まあ、確かに人間は、自分一人だけで生きているわけじゃないよな~。
    誰かに助けられ、誰かに迷惑をかけながら、今を生きている。
    過去の人類のプラスの遺産とマイナスの遺産も引き継いで、生きている。

    頭に来たとき、怒りをコントロールするのは容易ではない。
    怒りは、対象を破壊したい、傷付けたい、殺したいという気持ちを生み出す。
    しかし、怒った後は、殺伐とした気分になる。

    怒りまくって、至福を感じる、安らぎが得られるという人がいるとしたら、自分が殺されるときも同じ気分になれるか?と問うてみれば良い。
    =生きている人に問う限りでは、答は必ずNoになるだろう。殺されることが最上の喜びだという観念を持っている人がいたとしても、その人は淘汰されてしまい、存在し得ないのではないだろうか?

    ●情報源の確認
    情報源の確認が取れないと不安になるという意見があった。
    ある言説について、情報源を確認し共有できるWebサービスがあると便利だろうか?

    諸般の事情で、Twitterからは距離を置くことにします。あと娑婆の話 - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記

    こんな、情報源不明のネタテキストに、みんな真面目にコメントしすぎ。若干の賢者もおりますが。

    最新情報だと、これが出所説。確認しよう。
    →般若波羅蜜多心経(岩波文庫 中村元 紀野一義 訳註より)



    般若波羅蜜多心経

    *ひろさちやさんの著書「こだわりを捨てる」(般若心経)からの抜粋です。


    極端に言えば、わたしたちが生きているだけで迷惑なんです。一人の人間が増えると、確実にそれだけ地球上の酸素も食料も少なくなります。その人の排泄物で地球が汚染されます。

    だから死んでしまえ―――と言っているのではありません。わたしたちは他人に迷惑をかけていることを自覚してほしいのです。

    そして、わたしたちは、自分が他人にかけている迷惑を他人に赦してもらっています。赦してもらって生かされているのです。

    それ故、わたしたちもまた、他人の迷惑を赦さねばなりません。

    自分がかける迷惑は赦してもらうが、他人の迷惑は赦さない―――というのでは、あまりにも自分勝手です。

    日本人は、他人に迷惑をかけるな!と教えますが、それだと、自分が他人にかける迷惑は小さく計算して、他人から受ける迷惑を過大に評価することになりかねません。わたしたちはそれほど迷惑をかけていないのに、あの人はものすごく迷惑をかけている、といったふうになります。それは宗教の考え方ではありません。

    インド人は、わたしたちは他人に迷惑をかけずには生きられない存在だ。わたしたちは自分がかける迷惑を赦されている。だから、わたしたちは他人の迷惑を赦さねばならない。

    互いに赦し合い、迷惑をじっと耐え忍びつついきるのだ。それがこの娑婆の生き方だ。

    娑婆は忍土なのだ―――。そう認識しています。それが"娑婆"という言葉にこめられた意味です。



    頭に来たとき、怒らず、赦してあげることはできるだろうか?

    こだわりを捨てる―般若心経 (中公文庫)こだわりを捨てる―般若心経 (中公文庫)
    ひろ さちや

    中央公論新社 2010-01

    Amazonで詳しく見る
    by G-Tools


    イエス・キリストはユダヤ人によって殺された。
    イエスが処刑されるとき、彼の12人の友人は「知らない」と言って、見殺しにした。
    =自分も一緒に殺されるのは嫌だから、自己保身のために見捨てたのだ。人は皆、ビビリなのだ。

    イエスを見捨てた十二使徒は、イエスの死後態度を翻し、自分たちこそがイエスの後継者だとうそぶいた。
    なんというご都合主義!三流役者!
    「死人に口なし」~自己保身しかできなかったアホな連中に、イエスが提唱したことを継承できるわけがない。
    「贖罪」などという屁理屈は、後出しジャンケンの言い訳でしかなく、結果的にイエスの処刑を肯定している=イエスに対する侮辱以外の何ものでもない。
    =後で見苦しい言い訳をするぐらいなら、最初から処刑される前にイエスを擁護しとけよと。(笑)

    歴史に学ぶとすれば、キリスト教ほどデタラメ=悲惨な成立過程を持つ宗教は、他にないことに気付く。
    十二使徒というアホな連中しか集まらなかったイエスは、人材に恵まれていなかったと言える。
    その点は、イエスに同情せざるを得ない。残念でしたね。

    類は友を呼ぶ~「キリスト教」という看板のもとに、自分の欲望を満たそうとする連中が群がってきた。
    ・カトリック教会は、天に富を蓄えず、地上に富を蓄えている。
    ・十字軍は、異教徒との聖戦という大義名分のもと、戦争・殺し合いをやってきた。
    ・相変わらず、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の連中は、中東を舞台にして殺し合いを繰り広げている。
    ・異教徒である日本人は、アメリカ(キリスト教国)によって、害虫退治よろしく原子爆弾で大量殺戮された。

    人にだまされないためには、その人の言っていることではなく、実際にやっていることを見れば良い。
    キリスト教徒ほど、言ってることとやってることが乖離している=精神が分裂している人たちもいないのではないか?
    キリスト教はスタートの地点からして、十二使徒というアホな連中が歪曲して作ったもんだから、人類に荒廃しかもたらすことができない。

    人類は「赦し」という概念を共有し、実践することができるだろうか?
    もしイエス・キリストが、後世の人類=我々の生活を知ることができるとしたら、やはりガッカリするだろうか?
    失意のうちにあっても、改善の道を模索するしかない。
    少なくとも、他人に迷惑をかけているという自覚を持ち、謙虚になる努力は必要だ。

    ネコと和解せよ


      ∧_∧
     (´・ω・)
    .c(,_uuノ

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    コメント

    人間の心(=身体)には、制御のきかない
    無意識の領域がありますので
    赦す、ということは
    どこまで言っても、
    しょせんは臭いものに蓋、
    苦しみや痛み、そして
    それらを不当に与えられた怒りを
    無理矢理抑え込んで、
    その危険物をこともあろうに制御の効かない
    無意識の領域(ごみ箱?)に放り込むことに
    なると思います。
    まるで、我慢して許すと、怒りや苦痛が
    消えてなくなるかと思えるのですが、
    実際は、体~無意識にそのまま沈澱して
    いるのだと思います。
    そしてそれは、本人の自覚のないまま
    日々、歪みとなって噴き出すのでは
    ないでしょうか?
    (忘却ということも、あまり期待できないように思いますよ。)
    わかりやすい例が、
    自分がこらえた怒りを、
    別件で怒っている他人を指さして
    その「赦すことのできなさ」を批判したり
    見下したりすることで遠まわしに解消しようとする行動です。
    (本人は、とてもいいこと正しいことを言っているつもり)
    本当は腹立つけど赦さなければいけない
    赦せないとおれは駄目な奴になってしまう。
    そうだ、
    他の「赦せてない人」を批判しよう、
    人に向かって赦せてないと非難できる点において、俺は
    「赦せてない人」ではないことになるから。
    みたいな。
    認知的不協和の解消、のようなものでしょうか。

    詭弁の特徴をそなえたひろさちやさんの言葉にも
    そういう感覚が見て取れます。
    (彼の言葉を詭弁でなくするためには、迷惑というものを、とてつもなく、果てしなく曖昧で抽象的なままにしておく必要があります。迷惑という言葉の指示範囲は無限なので、迷惑という言葉に少しでも具体性を持たせようとすれば、とたんに
    彼の説明に合いそうな事例が迷惑という言葉で言い表せる物事全体のほんの一部にすぎないことが顕わになってしまうでしょうね。)
    我々にどれだけの時間があるのかはわかりませんが、
    一度
    「人に迷惑をかけるなでも、迷惑を赦せ、でもなく、人に迷惑を訴えられたら、相手の心情をがんばって理解し、心から謝ろうよ」とみんなが考えられるようにする。
    という方向で考えを広げてみるのも
    いかがでしょうか?

    綺麗ごとだけではなく、泥臭い部分に突っ込んで見る

    >ドクター・モローさん

    コメントどうもありがとうございます。

    > まるで、我慢して許すと、怒りや苦痛が
    > 消えてなくなるかと思えるのですが、
    > 実際は、体~無意識にそのまま沈澱して
    > いるのだと思います。
    > そしてそれは、本人の自覚のないまま
    > 日々、歪みとなって噴き出すのでは
    > ないでしょうか?

    その通りですね。
    自分の中で生じている怒りや嫌悪について、本人がどれだけ自覚しているかは個人差があります。

    http://hamamuratakuo.blog61.fc2.com/blog-entry-255.html
    人間は平等にできていない。
    全ての人間を等価、同じ状態にすることはできない。
    人間を観察するならば、必ず個体差が存在することに気づくはずである。


    他者に対する態度の決め手は何か?
    =自分の中にある行動原理、行動の基準が決定している。
    =行動の基準は、経験の構成、すなわち過去の行動の蓄積によって形成されている。

    > 詭弁の特徴をそなえたひろさちやさんの言葉にも
    > そういう感覚が見て取れます。

    ひろさちやさんのレトリックを「詭弁」とまで言ってよいかどうかは分かりませんが、ワンクッション置いた言い方にしますと、所詮は「綺麗ごと」になってしまっている部分は止むを得ずあるかと思います。
    =すべての人が「娑婆は忍土なのだ」と簡単に認識できるものなら、なんでこんなに犯罪や争いがあるのか?という疑問が生じます。

    > 「人に迷惑をかけるなでも、迷惑を赦せ、でもなく、人に迷惑を訴えられたら、相手の心情をがんばって理解し、心から謝ろうよ」とみんなが考えられるようにする。
    > という方向で考えを広げてみるのも
    > いかがでしょうか?

    他人を理解する前提として、まず先に自分を理解する必要があります。
    自分のことすら理解できない人間が、ましていわんや他人を理解することなど至難であると。
    =自分と他人の経験の構成の差異を認識するために、自分の行動原理、判断基準の元となっている根拠を認識しておくことが不可欠である。
    その上で、他者を観察して、理解に努めるならば、多いに利益、学びの場が与えられると思われます。

    ・怒りを怒りによって返していたら、苦痛の連鎖は止まらない。
    ・妥協と謝罪は違う。

    負の連鎖と止めるためには、
    ・自分に非があったら謝り、原因を取り除く。
    ・自分に非がなく相手に原因があったら謝る必要はなく、相手に原因を取り除いてもらう。
    という対処が必要になるでしょうか?

    http://hamamuratakuo.blog61.fc2.com/blog-entry-406.html
    きちがいの人、サイコパスの人に対して、どのような態度で接するのがベストなのか?
    きちがいへの対応方法は、「無抵抗・非協力」という態度を基本にしたら良い。


    謝罪はしても良いけど、妥協はしなくて良いと思います。
    そのためにも、自分と他人を理解する姿勢は必要ですね。

    今後とも当ブログをご愛読のほどよろしくお願い申し上げます。

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