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    今敏さんに学ぶやる気の出し方

    このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 今敏さんに学ぶやる気の出し方 あとで読む
    今敏さんという映画監督がお亡くなりになったそうです。
    彼の遺言の中で、一つ印象に残った言葉があったので、書き留めておこう。


    いつも言葉にはあまり出さないけれど忘れたころたまに
    誰も言ってはくれない大切なことを話してくれるね


    アニメ映画監督・今敏さんが死去

     2006年のベネチア国際映画祭に出品された映画「パプリカ」などで知られるアニメーション映画監督の今敏(こん・さとし)さんが24日午前6時20分、膵臓(すいぞう)がんのため死去した。46歳。北海道出身。葬儀・告別式は親族のみで執り行う。喪主は妻京子(きょうこ)さん。



    46歳か。平均寿命の80歳と比べると、ちょっと早いな。

    アニメ監督『今敏』が最後に書いた日記 - ゴールデンタイムズ
    今敏の遺書がすごすぎる件・・・ハムスター速報

    さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。
    ところが。
    肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。
    ありゃ?
    ある意味、こう思った。
    「死にそびれたか(笑)」
    その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。
    不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。
    妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師や看護師、ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。

    生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。
    エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。
    そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。

    顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。
    みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。



    ●ダイイング・メッセージ
    最近、やる気やモチベーションを高めるためにはどうしたらいいかをよく考えている。
    今敏さんの遺言から、そのヒントをいただいた。

    人間の本性が現れるのは、3つの場合がある。
    (1) 一人になったとき
    (2) 極限状態に追い込まれたとき
    (3) 有頂天になったとき

    今敏さんの日記から、今際の際に「生きる気力」が湧いてくることが分かる。
    「自分のために生きる」という時間が終わっても、なお残るものは何か?
    消去法によって、そこには別の目的=「他のために生きる」という目的が立ち現れてくる。

    人間は、本質的には自分のことしか考えていないから、「自分のために生きる」という目的は理解できるけど、「他のために生きる」という目的には、なかなか気付きにくい。
    =本当はもともとあるものなんだけど、いつもは目が向いていないので、見えていないだけ。
    =人間の意識とは面白いもので、自分の関心があること以外は、認識しないようにできている。

    ここに一つの、やる気を引き出すヒントが見つかる。
    キーワードは、「他のために生きる」。

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    ●メメント・モリ
    「自分が死ぬとき、何を想うだろうか?」
    未来の自分から、今の自分へメッセージを送ることを想像してみよう。
    自分が死ぬ時に人生を振り返って、そのときの想いを今の自分にフィードバックするのだ。

    スティーブ・ジョブズの生き方 - 浜村拓夫の世界

    今日が人生最後の日なら、本当にやりたい事、やるべき事(使命)を行ない、他の余計な事、どうでもいい事は捨てられる。

    ・自分の本心を知る(自分に対して素直になる)
    ・後悔しない選択をしようとする
    ・時間の使い方、物事の優先順位が鮮明になる

    これって、どんな人にも必要なことなんじゃないだろうか?
    memento mori (ラテン語:汝の死を想え)
    洋の東西を問わず、みんな気付いていたんだな。



    今敏さんが「現世に残した不義理を一つでも減らしたい」と思ったように、何かやりたい、やらなければいけないという思いが、人それぞれ出てくるのではないか?
    (人として、なすべきことは全てなした、という人もいるが、稀だろう。)
    その思いは、やる気につながるだろう。
    先延ばしにしていた大切なことを、今持っている時間で実行するのだ。

    ●生きている意味
    やりたいことが何もない、生きている意味がない、という人はどうしたらいいのだろうか?

    教育に生かすフランクル心理学

    (1)「人生の意味」を求める問いに対するコペルニクス的転回
    ・「私には生きる意味なんてない」,「私はいてもいなくても同じ」という考え方はニヒリズム(むなしさの感覚)を生み出す。「私の生きる意味は何なの? あるの? ないの?あるのだったら,人生よ,教えてほしい」と思い悩む人も多い。しかし,フランクル心理学では,そうした人生の意味を求める問いに次のようなコペルニクス的転回を生じさせる。

     人生が人間へ問いを発してきている。したがって,人間は,人生の意味を問い求める必要はないのである。人間はむしろ,人生から問い求められている者なのであって,人生に答えなくてはならない。人生に責任を持って答えなければならない。
     
     つまり,私たちは人生からの問いを聴き取り,それに答えることに全力を尽くさなければならない。人生からの問いは,各人の足下に絶えず送り届けられていて,その人に見出され実現されるのを待っている。



    ヴィクトール・フランクル - Wikipedia

    ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl,1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、オーストリアの精神科医、心理学者。
    第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られた。
    よく誤解されるがフランクルのロゴセラピーは収容所体験を基に考え出されたものではなく、収容される時点ですでにその理論はほぼ完成しており、はからずも収容所体験を経て理論の正当性を実証することができたと言えよう。
    極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。



    ロゴセラピー - Wikipedia

    ロゴセラピー(Logotherapy)とは、人が自らの「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒す心理療法のこと。創始者は、神経科医で精神分析家のヴィクトール・フランクル。
    ロゴセラピーは、ジークムント・フロイトの「精神分析」やアルフレッド・アドラーの「個人心理学」と並び、心理療法のウィーン学派三大潮流のひとつとして挙げられることもあるものである。

    「ロゴ」は、ギリシア語で「意味」の意である。ロゴセラピーは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており、その人生の意味が充たされないということが、メンタルな障害や心の病に関係してくる、という見解を基にしている。
    ロゴセラピーは、人にその生活状況の中で「生きる意味」を充実させることが出来るように、あるいはその価値の評価の仕方を変えることが出来るように援助しようとするものである。
    そのためロゴセラピーは手法として、実存主義的アプローチをとり、下記の3点を基本仮説とする。
    1. 意志の自由 - 人間は様々な条件、状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っている。(決定論の否定)
    2. 意味への意志 - 人間は生きる意味を強く求める。
    3. 人生の意味 - それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。

    フランクルは、人の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、「人生の意味を見出すこと」であるとする。人生の意味を見出している人間は苦しみにも耐えることができるのである。


     
    認知的不協和 - Wikipedia

    認知的不協和(cognitive dissonance)は、人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。
    人はこれを解消するために、自身の態度や行動を変更すると考えられている。有名な例として、イソップ物語のキツネとすっぱい葡萄の逸話が知られる。



    ・ごまかしではなく、自分と素直に向き合う。
    ・利己、利他の違いに着目して、時間の使い方を再検討する。
    ・生きる目的を、利己から利他に変容する。

    この作業をやろうとすると、上記(2)の「極限状態に追い込まれたとき」、つまり死に際とかならできるだろうか?
    普段から腰を据えてじっくりと取組んでいれば、時間はかかるかもしれないけれど、冷静なときでもできるはずだ。(できないというのは、怠慢の言い訳にすぎない。)

    結局は自分の好きなことを貫き通したやつが負け - ハックルベリーに会いに行く

    人間、なかなか自分のやりたいことを捨てきれないのもまた道理。授業の中で、あるいはそれ以外の場所でも、くり返し自分の好きなことを貫かないよう指導しているにもかかわらず(また彼らも頭ではそれを理解しているにもかかわらず)、長年違うふうに教わってきたため身体が反応してしまうのか、あるいは自分の好きなことへの執着が強すぎるせいなのか、なかなかその状態から抜け出せないのだ。

    ではなぜ自分の好きなことを貫き通すと負けてしまうのか?
    ぼくの分析したところでは、その理由は大きく分けて三つある。

    一つは、自分がそれを好きでやっているということは、裏を返せばお客さんへの奉仕の気持ちが足りないということになり、それを見透かされて、お客さんの気持ちを萎えさせてしまうということがある。
    二つ目は、舞台というのはお客さんとともに作り上げていく「共同作業」という意味合いが強い――というのがあるだろう。
    そして最後の三つ目は、これが一番重要なのだが、「人間というものは、本来的には『人に喜んでもらうこと』を至上の喜びとして感じる生き物だ」ということがある。

    人間は、本来的には「社会的な動物」なので、ほとんどDNAのレベルから、「他人に喜んでもらうことこそ本当の喜び」だというふうにプログラムされている。だから、自分の好きなことを貫くことは本来的な喜びとはならないはずなのに、生まれてきてからの誤った教育のせいか、そのことを忘れたり、考え違いをしてしまっている人間が多いのである。

    しかし、誰でも深層心理のレベルでは「本当は自分の好きなことを貫くことよりも、たくさんの人に喜んでもらうようなことをやりたい」と思っているから、そこで思いの齟齬が生じてしまうのである。アイデンティティが損なわれるのだ。気持ちが引き裂かれて、心がバラバラになってしまうのである。



    ヴィクトル・フランクルの祈り

    ヴィクトル・フランクルは、アウシュヴィッツの強制収容所の体験、観察にもとづいて「夜と霧」という書物を刊行したが、この中で人間が限界状況のなかに立たされたときに、人はどのような態度をとるか、何が人を生かすのか、について、実例をあげながら叙述している。そのなかで、私たちが真にいきるためには、人生を問う観点の変更を必要とすることを書いているのである。

     私たちはよく自己を中心とした立場に立って、人生にいみがあるか?と問うのであるが、実は私たちこそ人生から問われているのだ、というのである。人生が自分の思いどおりにならないと、一体人生に意味があるのか?と懐疑的になり,問うてみるのである。しかし人生の意味を問うそのあなたは、今、どこに立っているのか?そのことをまず、ひるがえって考えて見るべきである。この人生を見る観点が変わることによって、今まで見えなかったものが、本当の姿が、みえてくることが起こりうるのである。

     さてアウシュヴィッツ収容所における出来事であるが、二人の自殺を決意した人たちがフランクルのところに来て、自分たちの心境を、そして自殺を決意したことを打ちあけたのである。そのときフランクルは彼らに向かって「あなたは、だれかあなたの帰りを待っている人がいないのですか?あるいは、何かあなたをまっているもの,たとえば、あなたでなければなし得ない仕事というようなものでも、ないのですか?」とたずねた。すると、そのなかの一人は「私には妻子が、私が無事であることを願い、ぜひ帰ってくるのを待っているのです」と答えた。もう一人は「私には私でなければだれも代わって、なしとげることのできない仕事が待っているはずです」と答えた。そこでフランクルは「そうですか。その、あなたを待っている人たちのあなたへの期待に、またあなたを待っているその仕事の要請にあなたは応答しなければならないのです。決して早まって自殺してはいけないのです。最後まで忍耐して、あなたを必要としている者たちに応答しなければならないのです。生きるとは応答することです。自分のことだけを考えてはいけません」、と勧告したのであった。
     そしてやがてドイツは降伏し、彼らは収容所から解放されて帰国することができたのである。
     
     私たちは自分のことだけを考え、また、自分の見通しだけを尺度として、希望が持てなくなったから、自殺を決意し遂行しようとすることは、自己中心的であり、自己主張を貫くことである。それは、与えられた生を全うするものではなく、自己破壊を自ら行うことになるだろう。私たちの生は他者への生であり、他者に応答する生であるべきなのである。それゆえに、上の強制収容所に入れられた場合、あるいはいろいろの事情の変化により、解放される以前に死を迎えることがあるかもしれない。そういう極限状態にあっても、なお一日一日を、自分を必要としている他者のために最後まで応答し、最後まで忍耐し、行き通したという事実こそ、その人は本当に立派に与えられた生を全うした、ということになるのである。結果がどうかを問わず、主体的に応答の人生を生きぬいた、その生は決して空しくさるものではない。



    名言集

    あなたが誕生した時、あなたは泣いて世界は喜んだ。
    あなたが死んだ時、世界が泣き、あなたが喜ぶ。
    そんな人生を送りなさい。
    チベット死者の書 - ドキュメンタリードラマ 死と再生の49日



    利己と利他では、異なる結果をもたらす。

    ●価値基準
    すべてに勝る大切なものってあるだろうか?
    例えば、お金より大事なものってあるだろうか?

    この問いには、即答できる。
    それは「時間」だ。
    もっと正確に言うと、「余暇」=自由に使える時間のことだ。

    経験の構成が違うから、この問いに対しては、人によって違う答を持っているかもしれない。
    だけど、即答できない場合は、問題がある。
    つまり、自分が生きる目的・意味が曖昧になっているわけだから、よく考えたほうがいい。

    はてなブックマーク - 結婚と恋愛のレート - Chikirinの日記

    mochidori また似非社会学の俗悪論旨か。この人は香山系を目指しているのだろうか。印象で語るなら誰でもできる。統計の無いところに定性は無い。



    ・自分の立場に立てば、自分が正しい。
    ・相手の立場に立てば、相手が正しい。
    なぜなら、人によって経験の構成が違うからである。

    しかし、生きている間の、相対的な差異は、やがて同一地点に収束する。
    =統計的に見るならば死は100%を意味しており、人はそこに自分の人生の総決算を見ることになる。

    今敏さんが残した言葉を教訓としたい。

    「生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。
     エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。」
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